2012年4月 4日 (水)

『 坊っちゃんと四国 』

two doves

start hopping an archipelago

wind blows


 他人様がこぞって海外に出かけようという機会に、地味でかつお金もかかる国内旅行を敢えて選ぼうという態度は
卒業旅行と同様に新婚旅行でも変わらなかった。我が相棒もまた、その手の人だったためである。

 四国行きの決め手になったのは、鯨・漱石・戻りガツオであった。

 11月の遅い台風による荒波に煽られながら、フェリーサンフラワー号は一路土佐を目指す。竜馬を育んだ桂浜から四国のど真ん中を北上して松山へというルートに、元カヌーイストとして聖なる四万十の流れを加えたのがその時の旅程である。

 土佐入りしてから、豪快なカツオのたたきを含めた皿鉢料理三昧。四万十では、銘酒 千代登 に惚れ込んだ。この戻りガツオのたたきと千代登の組み合わせは今でも日本料理のひとつの頂点だと信じているが、それを心行くまで味わう。一生に一度にふさわしい贅沢であった。四万十の朝焼けも忘れがたい絶景である。

 息を飲む四国カルストの風景に見せられながら、バスに揺られて坊ちゃんの松山へ。明治期に偉大な文学者を輩出した松山には、今もその頃に似ると思われる空気が街角に吹きだまる。大正のように甘くはなく、厳格な雰囲気の中にいささかのユーモアが見え隠れする土地柄に思われた。五色そうめんにタルト、坊ちゃん団子にジャコ天と心に触れる味もあれこれある。

 浮かせた飛行機代を宿賃に充て、道後では飛び切りの宿に荷を解いた。温泉は漱石先生が泳いだ頃と変わらずに深い。芸者さんが念入りに顔をこしらえている姿が朝の風景の中にある。オヨグベカラズの湯で、やっぱり、泳ぐ。

 20年、再訪できずに来た。いよいよ今年は那智勝浦にも寄り道しつつ、ホエールウォッチングなぞも組み合わせて千代登に舌なめずりするのをワクワクして待ちながら、懐かしいかの地を目指す所存だ。

 

 

2012年3月30日 (金)

『 北海道 』

a string phone

connects two cabins

lunch in pasture


 今思えば、それは私の生まれ育った家庭というもののサヨナラ旅行だった。母の還暦祝いで両親と兄、そして私の4人で道東をごくゆっくりとまわって過ごした。行く先々で、自分の息子が学生時代に北海道を放浪したのでいかにこの地を熟知しているかを繰り返し地元の人に伝えようとする母の姿に苦笑したのを思い出す。そういう母だし、それを言わせている我が兄である。

 印象深かったのが旭岳温泉で滞在したペンションだった。お仲間の助けを得て、ご自分たちで建てられたというログキャビンの広々した部屋でくつろいだ気分の良さ。採れたての山菜が山と積まれた食卓は丸ごと焼いてくださった姫タケノコのむき方講習から始まった。セルフサービスでたっぷり頂くご飯もお味噌汁も絶品だった。掛け流しの温泉で手足を伸ばすと仕事疲れも一気に吹き飛ぶ。

 旭岳を挟んで向かい側にあるもうひとつのキャビンで暮らされるご夫婦はレストランを営まれていて、ルピナスの咲き誇る風景に包まれて食べた 牧場のランチ は忘れがたい一食である。ほっくほくのベイクドポテトにプリンプリンのソーセージ数種が熱々にボイルされて山と盛られる。ハーブティーの優しい香りに気分がほぐれて、長距離ドライブ疲れもすっきり取れてしまう。

 反対側のペンションご夫妻がよろしく言ってましたよ!と伝言をお伝えしたら、まるで糸電話ね!!とはじけるように笑われた奥さんの瞳が輝いた。旭岳をサンドイッチにした友情なんて、スケールがでっかいなあ…とうなる。

 どちらのご夫婦からもまっすぐな信念と人へのあったかい、けれども決して押し付けない節度を感じた。だから北海道への旅というと、そういった飾らない、それでいてガンコで頼もしい人々に会うことそのものが私の目的となる。

 北海道でもうひとつ興味のあるのはアイヌ語とその文化である。東京の西はずれに暮らしていた頃、知里 真志夫氏夫人によるアイヌ口承文芸講座に出席した。その時目にした映像の中で、アイヌの古老の夕日に向かって、馬と犬、そして猫やニワトリたちと語り合うように寄り添いながら家路を行く姿によってかけられた、魔法のような関心だ。

 …とこんな風に、北海道は遠いことだしまたいつ行かれるものやらとボンヤリ考えていたら、ガイドツアーの依頼が舞い込み、そりゃもう、旭岳でしょう!と、もてなしの本分をつい忘れてコース作りをうっかりと愉しんだり、同時に様々な現実に直面して大いに苦しんだりもしている最中である。

 カナダ人をして、

 「おお!我が祖国のようではないか!!!」

と、叫ばしめた雄大な自然が育むスケールの大きな人々に会おうという時、我と我が身からからガラクタをそぎ落としておきたいものだと、とりあえず、深呼吸をひとつした。
 

2012年2月24日 (金)

『 遠野 』


two decades

open lacquer ware

hot duck meat


 学生時代に友人とふたりして借りた自転車を駆って曲がり家を目指していると、鈍行列車が田んぼを横切って行った。まるでオモチャのようだなとその姿を見送った。

 子供の頃は、夏休みを丸ごと那須で過ごしていた。今思うと、共働きだった両親にとっての厄介払いだったわけだが、お陰で毎夏どっぷりと農村生活を満喫することができた。朝の牛の乳搾りから鶏の世話にスイカやとうもろこし他
野菜の収穫、ザリガニ退治に広い縁側の雑巾がけ、夕方はやかましいほどのヒグラシの鳴き声に夜は蛍の乱舞があった今では想像のつかないほど豊かな完全自給生活であった。そんな風景がどんどん失われていく。下町にあった故郷を根津に求めるようにして、とっくに都市化してしまった那須の面影を遠野に探す。まだ残されている、その空気を惜しむように吸い込む。

 旅の愉しみは、まずは出会う人との束の間の共感、次いでそこでしか味わえない郷土料理と忘れがたい風景とが織り成す感動とにある。遠野というところには、ちょっとユーモラスな人々が暮らしていて、地元の豊富な山菜をどっさりと食卓に並べてくれるし、山に囲まれた田園風景が語り部の継ぐ古の物語の世界を演出する旅の理想空間だ。遠野のいかにもそれらしい、古びた看板や牛乳配達の箱がたとえ無くなったとしても、この豊富な食材と大らかな風景そして何より人々のぬくもりは、いつまでも変わらぬ魅力であり続けるに違いない。

 20年ぶりにガイドツアーで訪ねた遠野はまさにこの、旅の魅力に満ちていた。お世話になった民宿の曲がり家さんでの出来事である。語り部が語ったいくつかの物語を囲炉裏端で英語に訳しているうちに、うらしまたろうに かぐやひめ、つるのおんがえしに わらしべちょうじゃ…と話がいくらでも口をついて出始めた。お客さん同士もあれやこれやと打ち明け話を始めた。食卓に呼ばれると山菜が山と盛られてお箸もお酒もつい、進む。にぎやかな夕餉となった。食後はまた、囲炉裏端に戻ってコーヒーをゆっくりと飲む。向かい側と目が合って、ふっと微笑みあう。その間で、薪がパチッと火花を舞わせる。お湯の沸く音がいつまでも続く。

 翌朝バスの時間がうまい事列車に合いそうもないのを知った宿のご主人が、我々7人のために車を出してくださった。「カワイコちゃん」だと送ってあげることにしているんだよ!とカワイイだろう年齢はとうに過ぎたガイドを脇に座らせて、カラカラッと笑う。そのまなざしがとことん、あったかい。また、おいで!と言われる時は、実家を後にするような気分そのものだ。明日も来たい!と、ついつぶやく。

 囲炉裏端のみならず、バスや列車やタクシーや路上でする未来の語り部を志す者にとって、語り部の里である
遠野がいつまでも 生きた語り を生み出す源泉となり、物語の故郷であるだろうことを実感する。

 ガイドとしての私は毎年一年分ずつ何かを学び、この故郷を訪ねることを楽しみに、そして励みにしている。

 

2012年2月16日 (木)

『白川郷』

huge rainbow

over thatched roof

milky sake


 荻町では特に親しい人々が待っていてくれる。明子さんとそのご家族が営む大田屋さんは、もう実家のような心地良さである。それは、お世話になる回数が増すにつれて親しさが深まったというのではなくて、そもそもここでは人の心に垣根というものを感じない。とても気持ちが暖かで頭脳のキレが良く、配慮が行き届いている人々の暮らすところだからこそ、合掌造という世界遺産を維持していけるのだろう。

 一泊二日の滞在二日目の朝は、必ず 鄙 に行く。近所の皆様の憩いの場となっているお店である。窓側の席で頂く極上のコーヒーは、二週間にわたるガイドツアーに欠かせないひと時だ。マスターは、コーヒーがおいしいのは、ひとえに良い水のせいだとはにかむが、そうでない事はそのお店の一通りでない懲りようでわかる。

 ツアー人数が多いときにお世話になる和田屋さんの朝食もすこぶるウマい。朝から三膳の山盛りご飯をつい、平らげる。地元の山菜や新鮮なお野菜を手間隙かけて供してくださる、その優しさがあふれるような食卓なのだ。その日は金沢経由で京都までの移動日にあたるので、このしっかりした腹ごしらえは大変ありがたい。

 2011年にはどぶろく祭にちょうど居合わせた。神社の儀式のあとは、ひたすら封切のどぶろくを浴びるように頂く。新酒は飛び切りおいしい。もう、これで最後にしようと思ってから5-6杯は飲んでしまい、どちらがガイドでどちらがお客さんだかわからなくなるほどゴキゲンになり、お互いにつかまりあって支えあいながら宿へ戻った時の一体感は忘れがたい。その群れに、お酒を一切口にしないイスラム教徒一名も実に楽しそうに加わっていた事実も印象的だった。彼は焼きそばとお好み焼きに十二分に「酔った」そうだ。

 宿に帰ると、何杯飲んできたか?と尋ねられ、よかったなあ…さあ、もっともっと飲め!と、さらにご馳走された。

 荻町にいると、相性などどいうことばは消えてなくなる。それは、そんな事を持ち出したら越せない冬の厳しさゆえだろうか、と酔いがすっかり醒めて温泉につかりながら、つらつら考えた。

 アンタとゆっくり飲みたいなあ…と言ってくださったお父さんと春になったら一緒に飲めるのを楽しみにしている。

2012年2月 6日 (月)

『浅草  サト篇 』


coffee beans waste

puts off the cigarette

SANJA festival


 六区にサトという喫茶店があった。20年以上前の事だ。カウンターに席を占めた2度目の日に、
「やっと思い出したわ! アナタ髪を切ったでしょ。」
と声をかけられて驚いたのが始まりだった。三社祭の折りに友人と連れ立ってほんのひと時立ち寄った客を覚えていてくれたのである。

 会社に足が向かない日に、休みの午後にとそれからよくサトに行くようになった。オーダーはいつも決まってブレンドだけだというのに、サンドイッチや小ぶりのうどんなどをご馳走になった。私の顔を見ると、随分遅めのお昼にしようか、と思わせるような時分時に行くのが常だったのだろう。欠食児童はそのお相伴に預かったのだった。

 開店12年目になるのよ…やっと干支がひとめぐりしたわけよね。もう一回めぐるまでやるぞ!と、か細い腕でガッツポースを作った。お店を終えてお化粧を落としているとね、コールドクリームを手のひらにのせたまんま寝てしまうのよ、ワタシ。つっかれちゃってねえ。

 
 美しい人だった。壁に芸者さん姿の写真があった。

 ある日、訪ねるとサトがなかった。

 浅草へは、滅多に足が向かなくなった。

 
 20年が過ぎ、外国人を引き連れて浅草に出かけるようになった。雷門から慌しく二天門へとすり抜けて、隅田川へと向かう。初めは嫌悪感しか感じなかった東京スカイツリーがすっかり我が物顔に変貌を遂げた浅草を行く。その時ふっとサトがあった頃の浅草を思い出す。篠笛を買ってサトに入って早速包みを開いて見せると、居合わせた近所の方から、お囃子やりてえのかい?若いのに珍しい。口きいてやろうかねえ…などと話しかけられた。

 今はサトのちいさな一箱のマッチ箱だけが手元にある。

 

2012年1月27日 (金)

『北鎌倉』

DAI

pottery to movies

a bird sings

 材木座でも長谷でもなく「ここ」だった訳を実感するのに2年かかった。東京方面から横須賀線で北鎌倉に到着すると、円覚寺とは線路をはさんで反対側にある丘と呼ぶくらいの山、台峯の存在のせいである。

 縄文より人が暮らし、キリシタンが潜んだとも言われ、俳人の集ったこともある やま 台峯は祈りの対象というよりも、むしろ祈りそのものであるかのようだ。

 神社や祠があるから、ではなく、ごく普通の生活音やケンカ騒ぎ、赤ちゃんの夜鳴きこそがかえって尊い。それは、都会より幾分かゆったりと流れるここの時間と気さくでいて折り目正しく、いささか控え目に暮らす人々の品の良さのなせる業だ。そして何より、地域を包む台峯の澄んだ緑の生み出す透明な空気が、この地を堅固に守っている。

 地元住民はちょっと取っ付きにくいようでいて、ある日のある時一気に瓦解すると今度は離れ難いほどに親しくなる。とっかかりの恥じらいも奥ゆかしい、その歯止めは効いたままだから無礼にはなりようがない。その心地よい節度が気に入っている。

 線路を挟んだ反対側が、あじさいだ紅葉だとかまびすしい頃でも、台峯は無関係に静まりかえっている。

 何のことはない、失ったと思い込んでいた 江戸 が、ここに人知れず息づいている。あるいは同郷の小津 安二郎監督をはじめとする文化人が暮らす間にその足跡とともに残してくれた気配なのであろうか。

 北鎌倉駅前には小津監督が贔屓にしていたという、いなり寿司の老舗が今も健在だ。曰く、江戸好み…私のおすすめする逸品でもある。白黒写真の中で、親友の里見 弴と一緒にかっぽう着姿も甲斐甲斐しく監督がてんぷらに揚げていたのは、まさしく台峯の山うどだったか?

 遊びに入れることはは入れるのだが、勝ち負けには関係しない小さな子供のことを東京の下町では、おまめと呼んだ。我が同居人の郷里では、それをカズノコと呼ぶのだという。おまめとカズノコが何とかかんとか育ちあがって台峯に今、暮らす。これは多分に贅沢なことだ、と感じている。

 
 

 

2012年1月26日 (木)

『外海』

sunset

golden stars

deep sea


19歳で滞在したほんの2-3時間が20年後の移住を決定づけた。密度の濃い外海での1年と5ヶ月は、あまりに多くの深い印象を残したために、10年経った今でさえまだ、その体験を受け止めきれないままでいる。ここは長崎、
日の暮れるのが私の生まれ育った江戸よりはるかに遅い、海辺のちいさな街である。

 5:15 頭のてっぺんで鐘が鳴る。向かいにある教会の朝ミサを予告する 寄せ鐘 である。近所の方々との連絡全般は、この朝のひと時に済まされる。
 「鐘の聞こえんようになったら、本当の住人や」
と言われた。なるほど半年も経つと、あの大音響は 聞こえん ようになった。

 ここでの生活には財布というものがほとんど要らない。畑のものは、名乗ろうとしない誰かから、いつの間にやらどっさりと届けられるし、新鮮な魚も玄関前に配達される。
 「海から泳いできよったとやろ」
と、近所の人はあっけらかんと笑う。温暖な土地で、着るものは誰もが周年着たっきり。8LDKの広々とした住まいが、家賃わずかに3万円だった。

 使い道のない現金は貯まる一方なので、質素に見える住民一同は実はお金持ち。海外旅行が盛んで、東京は、「マイレージが貯まったら遊びに行くところ」だったりした。

 こどもたちは誰もが素直でかつ無邪気で伸び伸びしており、仲が良かった。ある日の児童クラブで、お弁当を忘れた子があった。全員が自分のお弁当をのぞき込み、一番おいしそうなものを寄せ合って、その子の お弁当 を作った。それはその日の誰のお弁当よりも豪勢だった。その日のお昼はいつもにも増して、みんな特別嬉しそうに食べた。

 この谷は、「天国行きのバスが停まりよる」ところなのだ、と言われた。

 が、私もうっかり乗りそびれたように、
 「残念ながら、乗りよる人の滅多におらん」
のだそうだ。


 

2012年1月25日 (水)

『安芸の宮島』


whisper and work

millions of hermits

a red gate


 私は寿司を食べる際に穴子一貫で静々始めさせて頂き、穴子二貫で厳かに締める。中も本当はずっと穴子でいいほどの穴子が好きだ。兄貴分のウナギだって随分贔屓にしてはいるのだが、やっぱり穴子、なのである。

 磁器の品が良いお弁当箱にさっくり炊きたてご飯を詰めた上に、程よく炙って味付けされた穴子様が乗せられて運ばれてくる。甘辛のたれが熱々のご飯にじわっとしみている。初めて宮島に上陸したのが昼時だったので、船から飛び降りるや否やパクついたのが、これだった。だから、最上の第一印象をこの島に抱いた。

 人生の岐路に立って、心もからだもだいぶ傷ついていた時分だった。若さゆえの正義感と一本気がゴタゴタを引き起こしたのはわかってはいたが、その性分が年を重ねた今になってそれほど変わった訳でもない。ただ、痛みや敵の手口に多少慣れただけのことである。その時はやられっぱなしだったので、傷口を押さえてうめくしかないほどかわいらしかったのだ。世間を向こうに回して変化球を駆使し、ある程度料理する術を覚えたのは、それでも年の功ではあろうか。

 宮島の風景は自然も建築もどれをとっても、その時の傷に触らなかっただけでなく、むしろそれとなくその痛みを忘れさせてくれるようだった。こじんまりした島のどちらを眺めても美しく、心地よく感じられた。

 何かで深く落ち込むことでもあったら、私は宮島行きをお勧めする。穴子がお好きなら尚更である。私は後にも先にも、あの時ほど辛い思いをしたことはないから、激しく痛んだ心を包み込む効果は保証させて頂く。

 私はといえば、今度はとびきり元気な時に出かけて行き、せめて二度、いやいや三度はあのほっかほっかの穴子飯を食べてきたい。

『神戸』

Bon appetit!

croissan and sunrise

Asa station


 第一印象は圧倒的に異国情緒である。女子大生のかしましい旅だったのだから、やれどこそこの宮水コーヒーだ、ここのチーズケーキだと慌しかった。ただ単に、その華やかさに触れただけにとどまらずに、六甲山頂からの眺めの美しさと、そこからの終バスに乗り損ねた帰りの山道がやけにうら哀しかったこととがない交ぜになって私の心の中でこの港町の表情をより深く形作った。

 時を経て夫とふたりで訪ねたのは、震災から10年経った神戸だった。思い出に深く残る異人館はその数も減って、周辺の地形がいささか崩れたせいなのか幾分寂れた風に見えたとはいえ、そこからの海の眺めは相変わらず美しかったし、ふらっと入ったカフェのケーキがいかにもこの街らしい品格と味を保ってもいた。横浜とはまるで違う持ち味のある中華街で夕涼みしながらあれこれ物色して空腹を満たしたり、私の敬愛するフランスパン職人のドミニク・ドューセさんのベーカリーで職人さんのお勧めに従いながら焼きたてのパンをあれこれと仕入れたのは、パン作りを趣味にする者にとって至福の時でもあった。

 その数年後に六甲を訪ねることになったのは、旅行社を営む英国人家族がそこに居を定めてほどない時に、契約ガイドの私を招待してくれたためであった。新居のリビングから見慣れた港のあの眺めを三度楽しむ機会に思いもかけずに恵まれた時、初めてこの港を見つめたあの無邪気な頃からの時の流れと様々な人との邂逅を思わずにはいられなかった。

 私は外国人居留地のあった港町が持つ独特の明るさが好きである。どこか洗練された空気と居心地の良さが、そこに暮らした外国人たちが去って100年以上を過ぎても保たれるのはなぜだろう。私は、伝えて残しうる文化とそうでないらしい日本の文化との深刻な違いをそこに認めて、この港の眺めとともに何とか大切なバトンを次世代に渡すべく手探りを続けている。

 

2012年1月23日 (月)

『西荻』

LIVERTY

an old man

warm voice

 合言葉は、アンティーク・散策・一杯のコーヒーである。この旅はたいてい荻窪のピエロから始まるのだから、その前にたっぷりのマグコ-ヒーを付け加え、おしまいに大盛りのラーメンを添えたら余すところの無い一日となる。

 ここは子供の頃使っていた黒くてまあるいちゃぶ台だとか、引越しの都度いつしかなくしてしまった小物にひょっこり
再会する街である。飲み口のほうが太っているグラスやら○○株式会社創立100周年記念置時計など懐かしいものヘンなものをあれやこれやと発掘し、バッグが新聞紙に包まれた凸凹した品物で重くなった頃が某喫茶店でのコーヒータイムにふさわしい。

 いつも窓側に座って通りを行きかう人の流れをボンヤリ眺めながら、注文したコーヒーが運ばれてくるのをじっと待つことにする。それからは手紙を書いたり、短い日記を手帳に書き付けたりしながらゆったりと過ごす。

 外がすっかり暗くなって、お腹が何となくすきかけたのを感じると、長時間座った場をようやく誰かに明け渡すことにする。

 ラーメンと餃子が何だかこの1日を締めくくるにはふさわしい。ガラクタで変形しきったバッグがちっとも飾らないその様子と、この街のこの一角にはいつもジーンズとTシャツだけがしっくり来るのと似ているからなのだろう。

 数年暮らしていた東京の西のはずれの山の麓に帰りたい、本音の部分をグッと押さえつけて、今のところは東へと帰路につくことになっている。

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